法照寺様(浄土真宗 本願寺派)

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お盆の由来


仏教のとらえ方
仏教とは、いかに自分が悟りを開くかということが最終的な目的である。そのためにどのような方法をとるかは個人の自由であり、ゆえに宗派が分かれているのである。仏教の基本的な姿勢は、世の中の生き物すべてが平等である、ということである。人間も動物も植物もみんな命の尊さは同じである。ここが人間のために動物や植物が存在するという、キリスト教の考え方と大きく異なるところである。

浄土真宗の考え方
 浄土真宗の大元になる考え方は「阿弥陀様にすべておまかせしていればよい」というものである。
亡くなった人というのはお浄土に行かれるが、その世界は我々人間の力は到底およばない所である。それを何とかして我々の力で成仏してもらおうと努力することは無駄なことである。人間が死んでしまえばその瞬間からその人は阿弥陀様の手に渡るのだから、我々ができることは亡き人を偲び感謝することである。人間は自分の力を信じがちだから仏教を勉強して仏に近づこうとしたり、その時々の苦しい状況を素直に受け入れられないのである。
浄土真宗的観点から見れば、人間が死んだり、ケガをしたり病気になったりする事はごく自然なことである。死ぬのは生まれてきたから、ケガするのは元気だから、病気になるのは生きているから、である。そのような心配はせずに、病気になったらなったでそれも一つの御縁と考え、在るがままに受け止めればよいのである。
人間というものは目に見えるものから見えないものまで、様々な御縁によって生かされている。前述の病気のこともそうであるが、身近な人からまったく知らないような人でも自分と何らかの縁があり、それによって今の自分が存在しているのである。そのことを象徴する言葉が「ありがとう」や「おかげさまで」である。最近では裕福な暮らしができるようになり、とかく自分一人の力で生きていると思いがちであるが、周りの人に生かされていると考えなければならないのである。
他力本願という言葉がある。この言葉は現在でこそ他人の実力に頼るという悪い意味で使われるが、本来の意味はそうではない。阿弥陀様は良いことをした人のみを助けてくださるわけではない。悪いことをした人にも救いの手を差し伸べてくださるのである。だからと言って阿弥陀様が悪人を好きなわけではない。ただ悪人でも放っておけないのである。このことが他力本願のもともとの意味である。

これまでいろんなことを述べてきたが、浄土真宗の根本的な考え方は、
1)自分は数え切れないほどの縁によって生かされている
2)阿弥陀様はいつも我々を見守っていてくださる

3)亡くなった後はすべて阿弥陀様に任せておけばよい
ということである。

お盆について
 5世紀に日本に仏教が入ってきて日本は仏教国家になった。そして聖徳太子がすぐに十七条の憲法を出して日本は仏教国家であるということを謳いあげて各地に国分寺などを造ったが、所詮その時代の仏教というのは国家鎮護の仏教にすぎず一般大衆とは関係がなかった。
平安時代の初期に「本地垂迹説」というものがあった。日本のよろづの神は本当は仏様だ、などという内容で間違った学問につながっていく。それによって仏教が一般大衆に浸透していくわけだが、逆に仏教がずたずたにされてしまった。本来の仏教の姿じゃなくなったのだ。そういう中から盂蘭盆(うらんぼん)の行事の神道色が濃くなっていった。
例えば、浄土真宗であれば亡くなった方はお浄土へ行かれるが、現在の神道では鬼籍へ行かれる。これは当時のとらえ方で言えば中国の道教の影響である。当時の神道では亡くなった方は黄泉の国へ行かれていた。だが黄泉の国はあまりいい所ではない。だから遺族の方々がご先祖様をそんな所においておくのはいけないと考え、お迎えして差し上げたいと思うようになった。そういった非常に神道的なとらえ方と盂蘭盆(うらんぼん)が平安時代に合わさって、日本では亡くなった方がお盆に帰ってくるようになった。

日本には7月のお盆と8月のお盆、それに旧暦のお盆がある。これは私達の都合に合わせて決めた日であるから、わざわざむこうから帰ってくるはずはない。浄土真宗のとらえ方で言うと、ご先祖様は阿弥陀様によってお浄土へお救いいただいて弥陀同態の仏様になっておられる以上、いつでもどこでも我々を阿弥陀様と一緒に見ていてくださるのである。
今は亡き大江先生という方のお言葉にこういうものがある。「今まさに阿弥陀様の光はここへ届いている。証拠がある。ラジオを見てみなさい。電波があなたたちに見えますか。見えないからないんですか。スイッチを入れたらラジオはつくでしょう。同じように阿弥陀様の光はまさに我々に届いている。だがこちら側のスイッチが入っていないだけです。見えないから無い訳ではありません。」
これと同じことで,阿弥陀様と一緒にご先祖様は今まさに私たちを見てくださっているが、自分が煩悩で雲をつくって見えないようにしているだけの話である。要するにお盆だから帰ってくるのではない。いつでもどこでも阿弥陀様と一緒に我々を見てくださっているのである。我々が悲しむと一緒に悲しんでくださり、我々が腹を立てていると心配してくださる。だから浄土真宗は盆だからといって迎えるということは一切しないので、水だなを作ったり迎え火を焚くこともない。なぜ浄土真宗にそのような儀式がないかというと、お坊さんには関係がないからである。亡き人をお浄土へ連れて行くのは阿弥陀様である。法事をする際に浄土真宗は追善法要ではなく追悼法要である。在りし日を偲ばせていただき、お浄土へお救いいただいたことを喜ぶのが浄土真宗の法要のやりかたである。

  お盆は迷信的な要素の多い行事となっていますが、真宗の門徒は、仏様の教えを聞く機会にしたいものです。おかざりは、打敷をかけます。お盆の時期にふさわしい夏用のものを選びたいものです。お供えは、供笥に「お華束」という白い小餅を盛るのを基本とします。

三具足…燭台(ロウソク立て)、香炉、華瓶(花瓶)
三具足の場合、仏前に向かって右に燭台をおき、中央に香炉、左に華瓶を配す。
五具足…燭台と華瓶をそれぞれ一対ずつにする。
五具足の時には、香炉を中央におき、その外側の左右に燭台を一つずつ、さらにその外側に華瓶を一つずつ配す。

普段三具足のところを五具足にする。

お供えするものは、お仏飯、お香、灯明(ロウソク)、お花

お仏飯 炊き立てのご飯を毎朝(もしくは炊いた時)お供えする
お香 正式には抹香(粗びき状)を香炉の火種にくべて焼香する。普段はそれも立てずに香炉のの大きさに合わせて何本かに折って供える。寝かせて供えるのは、抹香を帯状に並べてたく念香の形に近いようにという意味から。
灯明 ローソクの火を消すときには、いきおいよく口で息をふきかけたりするがそれは無作法である。小型の専用のうちわないし、手のひらであおいで消火する。線香に着火したときは手のひらで炎を消す。
お花 お花は命のない造花で代用させる事はできません。お花は、花屋で売っているのを買い求めてもよく、庭で丹精こめて育てた花をお供えするのもよい。ただありあわせの花を無造作に立てるというのでは、仏様にささげるという心に欠ける。なお、トゲのある木の花、毒花や悪臭のある花は避ける。

浄土真宗ではお茶や水を供えるしきたりはない。
同じように霊供膳といわれるお仏壇用の小さなお膳も供えない。

「お灯り」「お花」「お香」←クリックすると説明が見られます。

 

 

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